江戸時代の日本の主要通貨は、東日本で流通していた金貨、西日本での銀貨と大きく分けて二種類がありました。
また、少額のやりとりは全国的に銅貨で済ましていたため、合計三種類の硬貨を使っていたことになります。
合計三種類の硬貨を使い分けるシステムはめんどくさい?
江戸時代の三種類もの硬貨を使いわけるシステム=三貨体制は、現代人には、大変に複雑でめんどくさいシステムのように思われます。
しかし、これでも江戸幕府が出来る以前、戦国時代にくらべると、かなりシンプルになっているのですね。
戦国時代は、大名の領地ごとに通貨が異なっていました。中国から輸入した通称「中国銭」を使わせているケース、上杉家などのように金貨を自前で鋳造、領内で流通させるケースなどがありました。
そして……第四の通貨ともいうべきものはコメ、つまりお米なのでした。
日本史にくわしくない方でも「加賀百万石(かがひゃくまんごく)」と聞いたことはあるでしょう。
当時、コメの収穫量は、石高(こくだか)という単位で示されました。
一石(いっこく)という単位を現代風に解釈すると、それは150キロの重さのコメとなります(米俵2.5個分)。
一石の100万倍が「百万石」ということになりますね。
実際には天候次第でコメの産出量は変わりますし、時代によって石高が「100万石」から増減することもありました。
あくまで「百万石」のコメが収穫できたところで、「四公六民」というルールがあり、加賀藩に入ってくるコメは40万石程度でした。
江戸時代の税制について
おおざっぱに言うと……地方の農民は租税(具体的には米を、自分の領主(藩あるいは幕府)におさめる)、町人は賦役(課せられた労働で税をおさめたことになる)。くわしくは来月以降の本連載にて掲載予定。
その40万石のコメの中から、武士たちのサラリーは各家のステイタス別に支払われます。また一部は貯蓄に回されます。
こうして手元に残ったコメが、藩に現金収入をもたらしてくれる、たいせつな製品となりました。
江戸時代が進むにつれ、金貨、銀貨といった貨幣経済が上方(関西)や江戸といった大都市圏を中心に生まれ始めていました。
物々交換の時代は過去のものになっていったのです。
それこそ加賀藩など、各藩の藩邸はそれらの都市に存在していましたし、藩邸の維持費や藩主の政治活動費などなど、現金がとにかく要るわけです。
藩にとっては余剰米を、現金に変えるためのツールが「米手形」もしくは「米切手」といわれる引換券でした。
今回は江戸時代中期以降の「米切手」の時代についてお話しようと思います。
大坂の街に米切手を使った、「帳合米商い(ちょうあいまいあきない)」がおこなわれる「米市場(こめいちば)」が生まれたのが、17世紀末ごろといわれます。
また、18世紀前半の享保年間(1716-1735)くらいには、各藩の定める価格を現金で支払えば、米切手を発行してもらえるというシステムが完備されていったとのことです。
切手を手に入れた後で、米の現物を手にすることができるので、現代でいう「先物取引」でした。
コメと米切手の先物取引が「帳合米商い」のベースなのですが、江戸後期を例にとると、米切手1枚あたりにつき、なんとコメが10石(=1.5トン)も引き換えられることになっていました。
紙切れ一枚の米切手を得るには、平均でおよそ10両もの大金が必要だったのです(人気産地の米切手はさらに高額だったようです)。
これは、庶民の中でも高収入とされた大工の年収の半分程度。
ですから米切手といえば、財力を誇る商人たちが投資目的で購入するのがメインなのでした。
コメの値段は、江戸時代を通じて揺れ動きます。
天候不順による凶作など、理由は様々ですが、需要と供給のバランスが何らかの理由で崩れ、ほしい人たちがいるのに、コメの量が少ない場合はコメの値段もあがりました。
幕府は米の値段が上がりすぎないよう、また下がりすぎないように統制を試みますが、あまりうまくは行かなかったというのが実情のようです。
米の統制価格
こういう時、商人たちがお金を出すなどで協力させられました。
米切手の取引には当然、リスクがありました。
米切手を発行する側である、全国各地の各藩は、とにかく現金がほしいので大量にコメ切手を「見込み」で発行しがちです。
しかし、実際のコメの収穫量がおいつかないときがピンチなのです。
買い手から訴訟を受け、それを幕府に知られると、重い処罰を受ける危険性がありました。逆に米切手を買った人たちにとっては、コメの収穫量が多くなればなるほどコメの価格が下がります。
米切手を転売しようにも望む価格で買ってくれる人がいないことに悩まされるわけです。
たとえば……久留米藩発行の米切手を1枚12両で、大坂在住のあなたは買うことができました。投資目的です。
久留米のコメは当時、根強い人気がありました。だから米切手も多少、割高だったのです。
当時のコメの評価についてですが、味はもちろん、米粒の色、ツヤ、そして形が欠けたりしていないという「見た目」までが重視され、値段が決まったのです。
現在の一般財団法人日本穀物検定協会が定める「特A米」などの評価基準にも通じるものがありますね。
久留米藩は、農家から年貢として取り立てる時点からコメの管理に心を配り、人気米の産地というブランドを維持し続けたのでした。
ところが、あなたが久留米藩の米切手を買った年の夏は、素晴らしい天候で台風もきませんでした。
「米がきわめて豊作になるようだ」という極秘情報が九州の知人から入ってきたとしたら……あなたはかなり困るはずです。
12両で買った米切手を転売して儲けたかったのに、7両くらいでしか売れないかも。
もしかしたら半値になってしまうかも。
ですから、豊作情報を他の誰かがまだ知らないうちに、米切手を何とか高く売らねばなりません。少しでも損失を小さくするためです。
このように様々な思惑が交差する、大坂の北浜にあった米市場の活況は、日本一の規模でした。
信用のある商人同士なら、1千石、1万石ぶんもの米切手の取引を平気で、ちゃちゃっと済ませていく様子に井原西鶴も脅かされています(『日本永代蔵』)。
1万石ぶんといえば、最小規模の大名家の石高に相当しますからね。それを個人同士がやり取りしているとは……。
陰暦を使用していた江戸時代の5~8月は、夏~初秋に当たります。
コメの収穫量が具体的に見えてくる時期で、米切手の価格が変動する時期にもあたります。
市場に休日はありませんでした。
6月~7月は夜通しで取引が熱心に行われたそうです。
台風が来る時期で、台風がコメの収穫にダメージを与えた場合、収穫量が減るため米切手の値段はハネあがります。
こうして平均で年間約250日。これは現在の取引市場と同じ期間だそうで、興味深いですね。
リスクを抱えつつも、現金がほしい人々たちの間で米切手は幕末まで取引されつづけました。
経済活動については、やや停滞した印象のある江戸時代の日本ですが、投資は実は熱心に行われていたのです。