1789年の「フランス革命」勃発を決定づけたのは、いったいなんでしょうか?
革命前の最後のフランス国王ルイ16世と、その王妃マリー・アントワネットたち王族の浪費でしょうか?
「18世紀末、ヴェルサイユで贅沢にくらす王族たちの浪費生活に、不況・凶作に悩むフランス国民が激怒、立ち上がったのがフランス革命のはじまりだ」などと教科書には書いてあるので、そう信じている方も多いかもしれません。しかし実際のところ、18世紀初め頃にはすでにフランス王国の破綻はほぼ、確実なものとなってしまっていました。
まぁ……短期間のうちにカード賭博で約12億円をスッてしまうなど、黒歴史を数多くアントワネット王妃は持っているので、彼女も無実とはいえません。しかしそれは最後のダメ出し程度。
最後のダメ出し…
17世紀後半(つまりルイ14世の時代)、国家財政の財政支出の3割をしめていたのが王室費でした。しかし、ルイ16世とアントワネットの時代には平均で6%ほどにまで落ちているのですね。
12億円をカード賭博でスッてしまう彼女ですら、フランス王室ではむしろ倹約家のほうだという事実は驚愕ではありますが、このように数字でみるとフランス革命勃発の決定打は、アントワネットよりはるか以前、革命の約100年前にすでに打たれていたということです。
主たる理由は長年にわたる「太陽王」ルイ14世の浪費生活、戦争グセ、その他モロモロでした。
なんせあのヴェルサイユ宮殿を建築させた男ですからね。
彼の治世は72年という長きにおよび、これは現在でもギネスブックに「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」として掲載されている記録となっています。彼の72年の治世の後、フランス王国が抱える国の債務(要するに国の借金)は30億リーブルに膨れ上がっていました。
1リーブルは現代日本円にして、2500円程度だそうです。
いちいち計算するのは煩雑なので省きますが、天文学的数字の借金の重みが、フランス王国にのしかかる中でルイ14世は崩御したのです。
当時、年間の国家収入が1億4500万リーブル、しかし支出が1億4200万リーブル。
つまり残りの300万リーブル程度では、国の借金の利子支払い程度にしかなかったので、フランス王国は国家としては完全破綻……いや、もはや死んでいるのに生きているつもりのゾンビのようだったといっても過言ではありません。
そこにルイ14世のひ孫にあたるルイ15世が、1715年、わずか7歳で国王に即位します。
不安しかない中での門出でしたが、ルイ15世が成人になるまで親族にあたるオルレアン公爵のフィリップ殿下が摂政として、政治のサポートをしてくれることになりました。……が、このオルレアン公の経済オンチの度合いも、なかなかに激しいものがありました。
当時、フランスで流通している正貨は金貨と銀貨といった硬貨「のみ」でした。
そして金貨と銀貨は本物の金と銀で出来ており、その素材自体に「価値」がありました(いわゆる金本位制度)。
フランス王国が破綻寸前なので、オルレアン公は国民から所有する金貨などを取り上げ、貨幣価値を20%オフにして彼らの手元に戻しました。その20%オフになった部分を国の収入にムリヤリしようとしたのですが、資産を二割目減りさせられた国民からは当然、大きな反発を食らいます。
すると、オルレアン公は国家にむけられた怒りの矛先を、自分以外の金持ちにむけるよう、いやらしい策を考えます。「所得隠し」つまり「隠し財産」を持っている人を告発したら、国が没収した財産額の10%を差し上げるという法令を出すのです。結果、大勢の逮捕者が出すぎてしまいました。
バスティーユ監獄には収監できないくらいに囚人があふれかえる始末となりました。一時的に国家の収入は増えましたが、逮捕された彼らの多くは経済人でした。フランスの経済活動自体が停滞します。
金目当てで虚偽の密告をする者も相次ぎ、風紀は逆に乱れました。裁判所でさばききれない数の容疑者が溢れたため、ついに裁判をまだ受けていない被告全員に「大赦」が与えられ、無理やり収束が図られる始末となったのでした。
国家権力としてもフランス革命の70何年前には、フランス王国は「オワコン」と化していたわけですね。
「もーこんな時、ど、どうしたらいいの!?」とお手上げ状態になったオルレアン公の前に「悪魔」が「救世主」の顔をして現れました。
悪魔の名はジョン・ロー、1671年、スコットランドのエディンバラ地方に生まれ、長身の持ち主で外見的にはハンサムな紳士でした。彼は14歳で父親の会計事務所に入所して以来、金勘定と金融政策のプロというべきスキルと知識、そしてカジノなどで鍛えた根性をあわせもつ人材でした。
ジョン・ローが最初にしたことは、後に彼と弟の名をとった「ロー・アンド・カンパニー」という銀行を設立を認めさせたことです(後にフランス王立銀行となる)。ここでは国民から正貨(金貨/銀貨)を預かる代わり、希望すれば金貨/銀貨を手元に戻すことができるという引換券を発行しました。
いわば紙幣ですね。
これが重たくてかさばる金貨/銀貨といった正貨の代わりに国中で使われることになります(これ以下、銀行券を紙幣として記述します)。紙幣のおかげで商業は活発化し、税収も増えました。
国民の間には、オルレアン公が国民から金貨を没収し、かってに20%オフにして戻してきた例の事件の記憶が強かったのですが、ジョン・ローの「紙幣」は非常に信頼できるものでした。少なくとも当初は。
国中にローの銀行(=フランス王立銀行)の支店が作られ、ローの紙幣はさらによく使用されるようになりました。しかし、ローにも悩みがありました。
銀行の最初期において、ローは銀行に預けられる貨幣と、その引換証である銀行券=紙幣が厳密に釣り合うだけの数になるよう、心を配っていました。しかし、紙幣を発行すればするほど、国が栄えると経済オンチのオルレアン公は勘違いしており、ローに強く、大量発行を迫りました。
ローは当初、有効な数を超えて紙幣を発行することを危惧していたはずです。それなのに……結果としては「なぜか」大量の紙幣が印刷され、国中にバラまかれてしまったのです。
その結果、紙幣の発行数に対し、ローの銀行内に足りていないだけの金貨/銀貨といった正貨数を補う手段がもとめられるようになります。困ったローは恐ろしい計画を持ち出してしまうのでした。 これが後に「ミシシッピ計画」といわれる、人類史上二番目のバブル、そしてその後の地獄をフランスにもたらしたのです。