「●●するだけで、大金が儲かる!」という言葉ほど、われわれの心に刺さるものはないかもしれません。
普段から投資している層以外に、まったく投資に興味を示さなかった層の人々までもが熱狂しはじめ、大金が国中で動くようになる。
「金が動く」のは、ビジネスが生まれているからで、国内だけでなく外国からも大勢の人々が利益を求めて詰めかける。不動産の価格や他の物価、株価その他もどんどん上昇……この手の「バブル」が人類史上最初に発生したのは17世紀初頭のオランダでした。
1630年代のオランダをバブルに巻き込んだ「張本人」は、チューリップの球根でした。当時のオランダを熱狂させたバブルを後の世の人々は「チューリップ・バブル」と命名しました。
1630年代といえば日本でも人気の高い、画家ヨハネス・フェルメール(1632?ー1675?)が生まれた頃の話ですね。
オランダのデルフトがフェルメールの故郷です。
一説に、彼の実家は1階が酒屋、2階が宿屋というような店を経営していたので、もしかしたらそこでチューリップの球根をやりとりしている人たちを見たことがあったかもしれませんね。
チューリップ・バブル?……聞いたことあるような……という方が大半でしょう。
Call Bitcoin a bubble just one more time...
— Blocktown Capital (@BlocktownCap) May 14, 2019
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それにしても、なぜ人々はチューリップ「なんか」にそこまで熱狂してしまったのでしょうか?
ビットコインの熱狂についての理由はまだ、歴史的には解き明かされてはいませんが、チューリップについては、だいたいのことが解明されています。
これから歴史の闇のように語られている、人類史上最初のバブルであるチューリップ・バブルにまきこまれた17世紀の人々の悲喜劇をのぞき見していきましょうかね。
チューリップは、その花の形がイスラム教徒たちが頭にまいている布の「ターバン」に似ていることで付けられた名称だといわれています。
古くから中東おそらくはトルコあたりで愛され、育てられていたチューリップの球根がヨーロッパに持ち込まれたのは1500年代半ばのことだったといわれます。
チューリップ・バブルの約130年前のことです。
1559年、ドイツのアウグスブルクにあった庭園では、身分の高い宮廷人の目を、咲き誇るチューリップの群れが楽しませていました。コンスタンチノープルから送られてきた球根でした。
チューリップをより美しく咲かせるには、「ある程度」の冬の寒さが必要です。
ですから、ドイツやオランダなどヨーロッパでも北部に暮らす金持ちを中心に流行はひろがり、園芸マニアたちが法外な値段を、球根に支払ってでも求めるという風潮が生まれました。
ただし、チューリップ・バブル以前のチューリップは、物好き専用のマニアックなアイテムにすぎません。
家の温室で大切に守り育て、他人に自慢するものとして価値を高めていったわけです。
マニアの数が増えるにつれ、チューリップという花の球根は高く売れるらしい……という事実がマニア以外の一般の人々の間にも広がり始めました。そして、1630年代前半くらいのオランダで、チューリップ・バブルの前兆があらわれだしました。
当時のオランダはビジネスによる蓄財を「善」と考える、カルヴァン派プロテスタントが多い新教国です。
すでに商業が盛んで、ヨーロッパで一番、国民全体が豊かな国でした。とくに人気の高い品種、それも上質な球根には凄まじい高値がオランダ国内で付きはじめたのが1634年頃。
やがて儲かるという噂を聞き、借金してでもチューリップの球根を買い漁る人々がオランダ中に溢れ、彼らの全員が富を手にしました。
チューリップの球根の値段は上がる一方でしたから、チューリップの球根を少しでも安く買って、高く売るだけで儲かるわけで、儲けた仲間から話を聞いた投資に関心のない層までもが球根を買い漁るようになります。
バブルの頂点だった1636年、もっとも貴重で効果な品種とされた「センペル・アウグストゥス」というチューリップの球根1つあたり、12エーカーもの宅地の単純不動産権と交換した投機家があらわれます。
また同じ頃、この「センペル・アウグストゥス」の球根一つに、4600フロリンと新しい馬車、馬二頭、馬具一式が付きました。
ちなみに当時、庶民の中では高収入だった大工の平均年収が250フロリン。当時のオランダの大工は、年間625万円程度を稼いでいたことになります(ちなみに現代日本の大工の平均年収は約500万円程度)。
1フロリン=2.5万円ともいわれますので、なんとチューリップの球根一つに約1億円もの高値がついてしまっていたのです!
珍種のチューリップの取引はオランダ国内の大都市、つまりアムステルダムやロッテルダム、ライデン、ハーレムなどなどの証券取引所のある街で定期市が設けられ、まるで金(きん)などのように取引がうやうやしく取り行われたのでした。
チューリップ・バブルの最盛期は1636年の末でした。球根の価格は上がる一方です。
ヨーロッパ中の金持ちがオランダに押し寄せ、取引量もさらに増えたため、法規制が整備され、チューリップ公証人など専門職まで生まれました。
取引所のない小さな街では酒場が見本市となり、毎晩数百人もの客が熱心にやり取りをしたそうです。
しかし……チューリップの価格が高騰すればするほど、球根「なんか」にこんな高値がつく「バカ騒ぎ」がこれ以上、続くわけがないという気持ちを誰もが持つようになっていき、その結果、最終的にバブルは弾けてしまいます。
1636年末の高値を頂点に、1637年2月3日、チューリップ球根の値崩れは突然はじまったとされます。
しかし、チューリップの価格崩壊の理由説明は、仮想通貨にくらべれば簡単です。
園芸をする方ならおわかりでしょう。春に花を咲かせるチューリップの球根は秋植え球根とよばれています。遅くとも12月か1月中には土の中に入れて植えなければ、ダメになって枯れてしまうのですね。
こうして1636年中には球根ひとつが一億円した「センペル・アウグストゥス」ですが、その価格も暴落しました。1636年末、「センペル・アウグストゥス」球根10個を四万フロリン(=1個あたり4000フロリン)で買いたいという契約を球根の卸業者との間に結んだ、ある商人がいました。
「チューリップ・バブル」はこうした先物取引によって支えられていたのです。
ちなみに、当時のオランダの平均年間賃金は200-400フロリン。庶民の暮らす共同住宅「タウンハウス」の一室が300フロリン。1フロリンは、現代日本の価値で2.5万円程度とも言われます。お手頃物件とはいえ、不動産の価格はお安めだったようですね。ちなみに有名画家の描いた花の絵の値段は1000フロリンはしたそうです。
庶民の年収の10倍くらいの価値が、球根たったひとつにあったわけです。これをバブルといわずになんというべきでしょうか。
しかし……現品がとどくまでに例のバブルは崩壊、「センペル・アウグストゥス」の価格は10分の1に落ちてしまいました。すると、商人は卸業者に球根の受け取りはもちろん、支払いも拒否しました。転売するメドも立たないものを買えば、破産してしまうからです。
もちろん商取引の契約取引不履行は犯罪ですから、当局が取り立てにやってきます。凄まじい数の破産者が連日あらわれました。
また、この手の訴訟さわぎは1638年5月まで続き、政府委員会が「これでこの問題はもうおしまい!」とウヤムヤにしてしまったのでした。
一瞬にして、オランダ中を好景気のうずに巻き込んだチューリップ・バブルですが、はじけてしまった後、また一瞬にして儲かったハズのお金の大半はどこかに消えてしまったことになります。そしてオランダの国家経済は長い間、チューリップ・バブルという、文字通り「あだ花」ブームの傷跡が残り、低迷を続けたのです。
しかし、このチューリップ・バブルには興味深い余談があります。一度は10分の1に下落した「センペル・アウグストゥス」の球根ですが、数年後にはバブル前の水準の価格に復活しているんですね。
仮想通貨スラングの「ガチホ」の論理はこの頃から存在していたのかも。
貨幣通貨の取引をなさっている方は、ビットコインの価格推移が「チューリップ・バブル」の球根の価格推移と「似ている」という指摘をネットなどでご覧になった方もおられるでしょう。しかしチューリップの球根の価格も復活したのですから、仮想通貨の相場も「ガチホ」していれば、復活するかもしれません。
バブルが弾けとんだのちも、珍しい品種の球根には高値がつき、そのやり取りで儲けられるチューリップ市場自体は残り続けました。
一部のマニアしか知らないチューリップの存在が、オランダ国内外に知れ渡り、それ相応の人数の愛好者たちが生まれることになった……要するにチューリップ・バブルがあったからこそ、チューリップはここまで世界中の愛される花としての地位を築けたといえるでしょう。
1630年代後半には、フランスのパリや、イギリスのロンドンの取引所でも、チューリップの球根取引が行われていました。
仕掛け人たちは、どうにかしてオランダ国内での取引価格にまで球根の値段を釣り上げようと必死でしたが、フランスではあまり人気がでず、ロンドンでも「そこそこ」、最高でもひとつ約3万円程度くらいにしか上がりませんでした。
オランダでのチューリップ・バブル崩壊後、イギリスのチューリップの価格も下落しましたが、19世紀頃、ブームが本格的に復活したそうです。なんとチューリップ・バブル時代の英国での球根価格が最高で、現代日本円にして3万円程度だったのに対し、その20倍もの高値がつく品種までが普通に登場していたそうな(要するに球根一つが日本円で約60万円……)。
オランダ国内でも同じような状況だったそうですよ。
バブル崩壊からしばらくは、チューリップを見るだけでもイヤな気分になる人々が続出していました。
17世紀オランダでは、クオリティの高い静物画が描かれたことが有名です。そして、これらの絵画に、咲き誇るチューリップの姿がしばしば描かれました。
それも「この世の繁栄は、つかの間にすぎない」と教訓を伝えるためです。
だからこそ「死を想え(メメント・モリ)」……なのですが、そんな「死の花」の役割を担わされたチューリップにとっては迷惑な時代だったでしょう。
しかし、オランダでも本当にチューリップを愛する人たちの間で、球根取引は残り続けました。
そして、19世紀頃には球根の価格は見事に再上昇、金持ちたちがチューリップを高値を払って購入、自慢するという習慣が復活していたそうです。
それでは現代もオランダのチューリップは、というと、残念ながら科学の進歩とともに、珍しい品種が生まれるメカニズムが「ある程度」にせよ解き明かされてしまったため、20世紀以前のような高値が球根につくことはなくなりました。
珍しい色や形のチューリップが咲く理由は、チューリップがある種の細菌に冒され、「病気」になってしまったから。
遺伝情報も狂って、珍しい色や模様が花弁や葉っぱに現れているのです。
この手の病気は根治することはなく、そのチューリップの子孫たちに代々、受け継がれる形質になっていくわけです。
これらを人為的にコントロールするのは難しくても、神秘性を科学によってはぎとられたチューリップの価値は、低値安定してしまったのでした。まぁ、珍しい色・形のチューリップほど病気が重いので、断絶する確率は高いため、球根は高価となります。それでも現在では珍種のチューリップでも、一球根あたり数千円を超えるものはなくなってはいます。